神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 青衾神社

青衾神社



式内青衾(あおふすま)神社は、熱田神宮の摂社として祀られる青衾神社に比定されている。

【由緒

創祀については不詳。

江戸時代には熱田神宮の摂社のうちに「アオブスマ」と称せられた神社は二社あって、そのうち一社は、「日神」を祀った東六社の「青衾社」、他の一社は、「月神」を祀った西六社の「白衾社」であった。

このうちの西六社の白衾社が現在、白鳥二丁目に鎮座する青衾神社に当てられている。
東六社の青衾社は明治に入って廃された。

吉野裕子氏の「祭りの原理」など一連の著作で詳しく述べられているが、原始信仰での東西軸における太陽と月、男と女、また陰陽五行における、東は青、西は白との対称が、その名称や祭神によく符合する。

なぜ西の「白衾社」が「青衾社」となったかについては、式内社調査報告では、下記のように説明している。

「西六社は「白衾」と表記しているが、古代にあっては、アヲは、黒と白との中間的な性質を持つ範囲の広い色を指し、そのため平安時代には「アヲウマ」の表記を「青馬」「白馬」の両様に用いる用例が見えてをり、従ってこの社名の「白衾」は、青衾と同じく「アヲブスマ」と訓んだと考えられる。」

「衾」については、私が思い出したのは、日本書紀(私が読んだのは、宇治谷孟著「全現代語訳 日本書紀」)の天孫降臨に際しての下記のようなくだり、

「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま;玉座を覆うフスマ)で、瓊瓊杵尊を包んで降らせられた。」

【所在】
熱田神宮の西門の西、約100mほどのところ、名古屋市熱田区白鳥二丁目に位置するが、昔は現在地よりも更に北西に位置していた。

【祭神】

当社は天道日女(あめのみちひめ)命を祀っている。

この神は尾張氏の祖神、天火明命の妃で、高倉下命の母にあたる。

江戸時代の記録では、東六社の青衾社が「日神」を祀り、これに対して当社は「月神」を祀るものとされ、「天魄月(あめのよのみたま)に配されている。

【祭祀】

当社が「月神」を祀ることに起因していると思われるが、中秋の名月の日に青衾社祭を斎行する。

昔は、特殊神事として、毎月晦日に岩戸神楽が行われていたと伝えられているが、この神事は江戸時代に廃絶している。
この時、湯立も行われていた。

この神楽は、古くこの場所に天岩戸と称する岩屋があったので、それにちなんで行われたものと思われている。

また、当社は鎮座地である田中町の産土神ともいわれていて、この町内では子供が生まれると、33日目にまづこの社を拝礼してから熱田神宮に参詣するという習慣があった。

【社殿

昭和20年3月12日の戦災で焼失し、現在の社殿は昭和43年2月に再建されたもの。


現在の社殿は東向きだが、江戸時代には南向きに建てられ、本殿・拝殿それに瑞垣・鳥居などの施設があった。

【参拝記】

青衾神社には、2011年元旦に熱田神宮に初詣に行ったときに、まだ、摂社であるこの神社に参拝していないことに気が付いて、西門から足をのばして参拝した。

西門前の大通りの歩道橋を渡り、白鳥橋へ向かう比較的細い道路の脇に神社があって、住宅街の中に小さな社が建つ。


昔は、本殿の裏に天岩戸跡があったらしい。